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Profile
喜多野 建夫
株式会社システックス/会長
トヨタ自動車に入社後さまざまな車種の設計に携わる。その後はアラコ株式会社で監査役をつとめたのち、株式会社タケヒロの副社長、三重設計の顧問などをつとめ、システックスの前身会社代表を経て現在に至る。
トヨタ自動車のあゆみ
私がトヨタに入社した当時は、設計ではなく実験部署にいたんです。実験というのはたとえばボデーの強度を調べるために曲げたり捻ったり揺らしたりして強度の計測をしていました。ここで3年くらい経験した頃、セリカ(初代)という新車種を出すという話があり、それにあたって人材がいないからということで、私はそこに選抜されて設計部署へ移りました。
はじめから設計ではなかったのは驚きです。
まさにここからが設計でした。ちなみに今でこそ数十車種のラインナップがありますが、その当時はクラウンとコロナの2車種だけ。それこそカローラは私が入社してしばらく経ってからだね。
でもなぜセリカを開発することになったのですか?
“セリカという車がなぜ生まれたか“というとね。日産がフェアレディZという車種を持っていて、これがものすごく利益を生む車種でした。アメリカで5,000台も売れていてトヨタが負けていた。
フェアレディZは日本でももちろん販売していたのですが、当時の日本ではスポーツカーは値段も高くて高級車だし、かつ走り屋の方が乗る車でしたので、一般的にはあまり広まっていなかった。
ところがアメリカの若者たちにはうけていたんですよね。だから打倒フェアレディZということで作られたのがセリカだったんです。でも、いざ作るとなっても設計する人がいない。だから各所から寄せ集められたってことですね。
どういうことですか?
セリカの設計を始めた頃、純粋なトヨタ自動車の人間は半分ぐらいでした。あとはトヨタ車体から1人、セントラル自動車(現:トヨタ自動車東日本株式会社)から2人、豊田合成から1人とかね。そうやって集めたんですよ。2人ほどベテランはいたけど、ほかは言ってしまえばほとんど素人集団でした。
でね、毎日驚くほど残業。いまでは問題になってしまいますが当時は月間168時間ほど残業していました。もうね。とにかく図面を描いて描いて描きまくっていたんです。でもまったく嫌じゃなかった。かっこいい車を設計するというのはやる気が出るってね、みんな本当にやる気で溢れていましたよね。
会長はどの部分の設計を担っていたのですか?
私は計器盤とリアのトランク。計器盤というのはインパネ(インストルメントパネル)と言ったらイメージしやすいかな。でね、あの中(裏側)がとにかくすごい。スピードメーターが付いたり、ステアリングが付いたり、引くブレーキや空気のダクト、ステレオラジオなどがすべてあそこに付いているわけです。だからあの裏側はもう配線もむちゃくちゃ。
ダクトとステアリングが当たっちゃったりとどうしようもなくてね、気が狂いそうになりましたね。(笑)
よし、これで大丈夫だ。と思ったら、今度はこれも付けなきゃ、あれも付けなきゃってね。一体どこへ付けるんだよ、もう付けるところもないぞ。と。
とにかくあとからあとから問題が出てきて、組み付けてみたら上手くいかない。デフロスターノズル(ウィンドウのくもり止め)もステレオと当たったりして。でも運転手が見やすくて、衝突したときぶつからないように正面(おもて)のデザインは位置が決まってしまっていますから変えることもできないし。もうそれはそれは大変でした。
セリカのあとは何を設計したのですか?
セリカを5年くらいやって、終わったあとは内装設計のほうに行き6年ほどかな。その頃は係長になっていました。内装設計の方ではいろんな車種のシート、天井、ドアなどの内張りといった内装の装飾部品の設計をしており、ちょうどコロナのフルモデルチェンジの時期もあってコロナのシートなどをやっていたかな。
その後はまたボデーに戻されて課長を任されることになってね。そこでやったのはMR2。ほかにもターセル、コルサ、スターレットあたりの車種をやりましたね。
懐かしい車種のオンパレードですね!
懐かしいでしょ?その後は次長として東富士研究所に行くことになったわけです。そこでは要するに“未来の車(将来の技術開発)をやる”ということでね、またアカデミックなところに行くことになったな〜とね。
どういう役割を任されていたのですか?
ボディ、シャシー、駆動、とにかく何でもいいから新しくてやりたいことをやりなさいっていう指令があってね。あの頃は毎日富士山を眺めながら色々と考えを巡らせていましたよ。たとえばアルミボディを作ってみたりとか。駆動の人たちはCVT(Continuously Variable Transmission)とか、シャシーの人は自動制御をやっていたかな。
あとはアクティブサスペンション(サスペンションに油圧の力を加えることで、クルマの動きを積極的にコントロールし、乗り心地と操縦安定性を高い次元でバランスさせる)のアブソーバー(サスペンションの動きを制御するパーツ)だとかそういうのをやったりしていましたね。
でね、私がやったアルミボディは軽いし強度剛性もある程度よかった。衝突した時にはぐしゃっとしてからピョンと形が戻るから、比較的きれいに残っているじゃん、素晴らしいな!と思った。しかし衝突をしている最中に乗っているダミーが無事じゃないなというのがわかったりしてね。有意義な研究をさせてもらったなと思っています。
でも研究予算は相当必要なのでは?
「年間20億円使っていいぞ」と言われていました。ちなみにレースをやっている部署は年間500億円を使っていいと言われていたんだよね。東富士研究所には4年ほどいたから計80億円使ったことになるね。本社の人間からは「金返せ!」とかコテンパンに言われていましたが、研究ってそれだけ大きなお金がかかるんですよ。
たとえば次のクラウンをどうしようかという時に、新しいネタが何もないでは魅力がないでしょ?ただ単に姿カタチが変わっただけではお客さんが欲しいと思わないじゃない。
だからモデルチェンジした車を早く買いたいと思わせるようなネタを入れ込まなきゃ。
裏を返せばそういう期待の圧が会社からかけられていたと?
当然だけど成果を出さなければならなかったですよ。
まぁそうこうしている間に「誰を子会社に出すか」ということが本社の方で話し合われていてね。私はアラコに行くことになったわけです。初年は参与として。2年目に取締役になり、5年目に常務、8年目に監査役になりました。監査役になった当時が58歳で61歳までつとめましたかね。
監査役になって会社の経営状態を見ているうちに、“会社を経営する”ということはどういうことかというのを学んだわけです。
そして監査役としてのつとめが終わり、家でゆっくりしていたら今度はタケヒロから電話がかかってきてね。「明日から来てもらえませんか?」と。
タケヒロには専務で入って最後の2年間は副社長をやらせてもらってね。計10年ほどいたのかな。その間、三重設計の顧問をやったりもしていて、その中で独立したいと考えてシステックスの前身会社を立ち上げました。
設計の仕事をしてきて思うこと
そうですね。やはり与えられた仕事に対して“何を目的にこの実験をやるのか”、“何を目的にこの設計をやるのか”ということを考えることが大事だと思います。つまりは「考える力」を使うということだね。若い人にお願いしたいのは、“とにかくまずは自分の力で考えてほしい“ということ。
当時でいうと、GM(ゼネラルモータース)とベンツがお手本でした。セリカのこの部分をやってくれと言われたら、その部分はこの2社の車が大体お手本になるわけです。
実際に実験に使うために、ベンツをばらして測定しまくったりしてね。鉄板の板厚だってわからないから、測ってみたり。ばらしてみると、とにかく衝撃を受けたり感心することばかりでした。
でも、それらを踏まえた上で「じゃあ自分たちはどうやるか」というところを考えなければならないです。もうちょっとこうやってみるか?とかね。
印象に残っているエピソードってありますか?
やはり嬉しかったのはね、設計者というのは自分が描いた図面の1号車(試作車)が完成した時が感慨深いですよね。みんなで寄って集ってなめるように触りまくっていましたね。
あと1番嬉しかったのはね、東京モーターショーでのセリカの発表会かな。発表会で台の上に車を乗せて説明員が説明したりするでしょ?
あそこに私を指名してくれたことだね。2日間だけど得意げに説明していたところに、下の方を見ると高松宮様がおみえになっていて、その両側に豊田英二社長と日産の川又克二社長のお2人が付き、説明しておられた。それを見たときは本当に感激だったな。
それとは別に心残りなエピソードもあって、私がセリカをやっている時は土日も出勤していて家にいなかったのですが、当時うちの息子は幼稚園か小学校1年生かそのあたり。けれど私は日曜日もいないからお隣の子を遊びに誘ったそうです。でもお隣の子は「今日は日曜日だから僕はお父さんと遊ぶ。だから君とは遊ばないよ」と言われて帰ってきたそうで。家内からそれを聞いたときはかわいそうなことをしたなと思いましたね。
これから設計を志す人へ
さきほど言った“自分の力で考えてほしい”というのに加えてもうひとつは、設計は個人プレーではなく団体戦だということ。
設計者のチームでやっているわけだから、お互いに助け合ったり教え合ったりが大切だということ。
それからもうひとつ、今は技術も進化しているからほとんどがCADの画面を見ながら話していますが、それでは心の乗り移りが薄いのではないかと感じるのが本音です。
自分が設計したものは自身の手に取って、見て、触って、曲げてをしてみてほしいかな。それが技術屋さんというものじゃないかなと思いますね。あとはどこまで“お客様の気持ちになって心遣いができるか“ということも忘れずにいてほしいです。